日記の試み

horyu.hatenablog.jp
承前。

先の「日記」に、「日記というものを公開して他人に読ませるメリットがわからない。むしろ個人情報等を知られるデメリットがある」と書いた。

さて、世に日記といわれるものを見ると、誰と何を食べたか、といった内容が多い。食べものの写真が多くアップされている。すくなくとも日本では、そうである。

毎日の食べものの写真を撮って記録することで、食生活の偏りを治す、という療法を聞いたことがある。なるほど、そう思って、食べたものを写真に撮ってみると、無意識のうちに余計なものを食べていることにも気づく。

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こういうものを、世界中の人たちが読めるWWW上にアップすることは、サーバーを圧迫するだけで無意味なことかと思っていたが、なるほど食生活の改善には役に立ちそうだ。逆に、毎日の食べものをすべて写真に撮ってアップしたりすれば、日々の不摂生がバレてしまうようで、その自制心が、食生活のほうを変えようと思うようになる。

じっさい、こんなものをアップしても、ほとんど誰も読まない。誰よりもよく読むのは、自分じしんである。自己の内部にある、超自我である。これと同じように、万歩計や体重計の値をアップし続けて、それを「誰か」に見られているということで、ダイエットの原動力にすることもできる。こちらのほうは、私じしんも、肥満の防止のために、すでに行ってきた。

しかし、Facebookなどでは、誰かが食べものの写真をアップし、近しい数名の人間が、いいね、などとコメントをすることも多い。この場合は、自己の食生活の改善というよりは、食の共有という、別の社会的意味があるのだろう。

新型コロナウイルス感染症の広がりの中で、感染症自体よりも、人間のコミュニケーションのあり方が基本から問い直されるという未曾有の事態が起こっている。緊急事態宣言が繰り返される中で、明らかになってきたのは「集団で食事をしたい」という、抑えがたい、強い欲望である。これは、私じしんに、そのような欲望があまりないので、気づかなかった。

今まで、誰かと会うときには、無意識的に、喫茶店などで話をしてきた。お茶等を飲むのは目的ではなく、人と話をするのが目的である。しかし今、飲食を共にするのを避け、机を挟んで椅子に座り、人と会って話そうとしても、意外にそういう場所が見つからないのである。これは、今までの無意識の行動パターンの、意識化による発見であった。

ウイルスは弱毒化しながら、感染力の強い変異が集団内に広がっていく。以前にも冗談めかして書いたが、最終的には、人間を元気で社交的にするウイルスが、人間と共進化していく。むしろ、進化のある時点で「集団で食事をしたい」という欲望を引き起こすレトロウイルスが逆転写されてゲノムに組み込まれたのではないか、といった仮説を考えたくなる。

(日記なので、文章が途中で切れるのは、御容赦を。)